2018年3月29日木曜日

退職届

ついに会社を辞めることになった。今しがた退職届を書き終え、春の日差しを私は灰色のカーテンで遮ってこれを書いている。わずかな光の中、張りのある鳥鳴が部屋を湛えている。
冬を乗り越え、この暖かな時期に転職することができて嬉しく思う。

私は書くことに慣れていないために、少ない語彙でこの退職することから転職に至るまでの心情を表現しようとしている。
ただ、それは叶わない話であり、私はもう普段から誰かに表現することなく会社、他者から与えられた努めを果たすためだけに生きている。

私はもはや自分のものでさえないように感じられる。
私は私の中におらず、もう書くことの意欲は他の欲に取って代わられる。

今日、部長と飲みに行く。
そこでは何かしらの慰留の条件を持ち出してくるだろう。
私はその気持ちをへし折らなければならない。
よくしてくれていた人間だけに、私は申し訳なく思うと同時にすでに決断している事柄に対して相手に配慮しつつ自身の思いを伝えるためには沈痛な面持ちをせねばならない。
その演技がひどく面倒に感じる。
いいや、その面持ちさえも必要ないのかもしれない。

__それにしてもひどい文章を書くようになった。三年ぶりに自転車にのったとしても、もっとまともに走れるであろうに、私はわずかこの一年書かずにいたことで思いと文章が分離しているものを書くようになってしまった。
思いを文章に移すまでの間に大きな溝がある。その溝を乗り越えるための手段がない。

私は本を書くために読んでいるから、書かないと読むことができない。
実際、読んだ本はなんにも生きていないように思う。
大江健三郎の著作を読んだ。
技巧に飛んだ文章であり僕はそれを真似たいが、それに近づくことさえもできない。
アウトプットする時間がないからだろう。

相変わらず景色のない文章。
景色のない、文章。
空は青だ。コンクリートは灰色だ。灰色のカーテンを開くと黒いカラスがいる。
それは鳴き、いずれ飛び去ることだろう。
目の前は一面木が生い茂っている。最近、結婚式会場を作るために伐採されたために、はげを隠すようにして見える地肌のように、桜が薄々とみえる。そしてそれは隠されているがゆえに遮るもののない桜よりも、ありありと桜の存在感を示しているのである。
これがわからないものとはお友達になれそうにない。

私は同業の、より大きな会社に転職する。
そこで僕はより血を見ることになるだろう。
私の迷走神経が不安だ。採血で四回気を失った人間である。
ただ、私は少なくとも人の役に立っていると、そう錯覚させるためには命にかかわるものでなければならないと思う。
働いてしまえば、私は金のために働き金を得ることができるのであれば仕事を厭わないだろう。
ただ、その仕事につくにあたっての原動力、動き出すときに最も力がいる動機が自身を錯覚させるに足る綺麗事でなければならない。
この綺麗事がなければ、私は働くことができなかっただろうと思う。

これからどの地に落とされるのか、果たして三ヶ月の研修に耐えられるのかどうかさえわからない。
ただ、一つ言えるのはこれは心の実験であって、動揺する自身の心を眺めることができれば耐えられるのである。
誰の、何の心にも留まらない文章を書いた。
それをいつだって自覚しているが、それにしても散逸な心のまま私は書いた。

2017年10月15日日曜日

何か高尚なもの

何か高尚なもの、それを書かなければならないと思っている。
どこかこのくだらない現実から遠く離れたようなおとぎ話を書かないと、と思っている。
それは今こうした現状からの逃避なのかもしれないが、一方で逃げても逃げても付き纏うような影の存在として現実の問題からは離れることができない。

現実問題が大きくなると何か高尚なものを書かないとと思う私は板挟みになって何も書けなくなってしまう。
実際、もう手記でさえほとんど書く気がない。
書かなければならないという焦燥は濁流の中、藁にも縋る気持ち、である唯一の藁なのかもしれない。

日常は耐えず切羽つまり、仕事というのも馬鹿馬鹿しい気持ちがしている。
一体、高尚なもの理想とするもの、その何かが言語化できないままその言葉だけが一人歩きをしていって遠くに行って幽かな光となってたえず私を歩かせようとする。
その理想とは、言語化してしまえば解体してしまうような儚げなもの、いわばその程度のものとして私の遠くにある。

遠くにあるとは美しいことで、近くにあるとは醜いこと。
近くにあると見なくてよいことを見る。
たえず朧気で幽かで、いつ消えるかわからないもののほうが、反対のことを言うようだけどずっと一緒にいるような気がする。

2017年6月4日日曜日

銀の森

全く景色のない、飽き飽きした心情世界。
だから私は森を描く、と思う。
ああ、それで目の前に森があるんだと思う。
私の目の前には森が広がっている。視界を遮らないような形で、白い細かな凹凸のある壁が緑に塗りたくられる。
それも一辺倒の塗り方ではない、淡い色であったり濃い色であったり、その凹凸がいかにも森を表現しているような気がされる。私はこの視点から世界を作り上げている。
神の視座をもって何事かを物語っている。
銀色のしわくちゃにした紙、それは私の食べかけの板チョコの包み紙であるが、それというのが森の中にある、極めて人工的な工場のような気がしている。
私の視界にたえずぼんやりと映る、銀色の煙。
そいつは煙をたかだかと掲げている。

2017年2月6日月曜日

月曜日の陽の光

月曜日の穏やかな朝である。
私は今日、会社を出て早々に家に戻るつもりでいた。
天気がよいこのような平日のはじまりにはひどく自由になりたい気分であった。
無論、帰れるのであれば帰りたい私には特別のものではなかったが。

さも営業に行くようにして意気揚々として会社を出て私はさっそくネクタイを緩めた。
駅前の雑踏、それは駅に向かうものであったり、駅からどこかへ向かうものであったり様々であったが会社から家に向かう流れはどこにもなかった。

誰もが活動的に動く時間の中、ひとり自由になるのは心地がよいが妙な焦燥──それは今日すべきことがあったが今でなくてもよいという理解を自らに与え、手懐けるためには何処かで落ち着く時間が必要であった。
そこで私はまず喫茶店にゆくことを考えた。
珈琲とパンと卵、それと新聞。
これをもって焦燥を手懐けようと思っていたが空を見遣り、ふと河の流れが見たいと思ったのである。
考えるべき事柄は諸々あるが、心を空にしたかった。
もしくはただ一切は過ぎゆく、そのことへの納得を自らに与えたかったのかも知れない。

騒々しい車の通り抜ける音に耐えて河に向かう裏道を通った。高架下をくぐり靴の音がやけに反響する階段を降りた。
地面は湿っている、上を多数の人が乗っているであろう電車がガラガラと通った。
一人と多数が交差したこの高架下、私が誰でも、何にでもないことを告げていたような気がする。
そして上がろうとするとき妙に心が踊った。
四面に囲まれた空が私を迎え入れたのである。
その囲まれた空は出口に近づくにつれて視界いっぱいに広がった。

私は土手を靴が汚れないように歩いて大川のほとりに腰を下ろした。
右手に桜ノ宮を見て、左手に天満の橋、真ん中に造幣局がある。
ここ造幣局は桜の名所らしいが今は無数の木の枝が近くの散歩者を寒々しく飾っていた。

河はつとめて穏やかだった。流れを見ているとき、自然と祖父母と両親のこと、私が東京を離れて大阪にいること、これから先どうなってゆくのか──ということに目の前の小舟がたゆたうようにして取り留めもなく思いを馳せた。

河の流れを見ているとき、私は誰でもなかった。身なりこそスーツを纏いコートを羽織っているが、次から次へと移ろいゆく思考をもつ私は決して誰でもなかった。
通り沿いの散歩をしている人たちには私がくたびれた会社員に見えたかもしれない。月曜日午前10時をさして私は紛れもなく浮いた存在であった。

ふと私は靴の傷をみとめた。
この頃、革靴を新年にあわせて新調してからというもの、傷に神経質になっている。
黒地に白い一筋が私のあやふやな思考にも区切りをつけたようである。
月曜日の陽の光に洗われて私は帰途に着いたのだった。

2017年1月27日金曜日

遅刻

遅刻という下らないことで信用を落とす。落ちたところで、それがもともとだという感覚が妙にオプチミストであり、かえって本来の自分に還ったという感を与えてくれるものである。

ほら、社会人失格だもの。
社会人失格と遅刻とは切っても切れぬ関係にあるのだから致し方ない。
変わりに君、数字という結果を残すのだから許してくれ給え。

私が遅刻をするというのはさしたる問題ではない、世の中を見てくれ。
私は一中小企業の社員で、世にはいろいろな幾多の会社員がいてあくせくと働いているのである。
私は会社と家が間近なので電車の中の溺れかかった魚のように口をぱくぱくとさせる人間を見なくなってしまったが、きっと今日の朝、労働者六万五千人ほどのなかの一万人は遅刻をしているに違いない。
それにだいたい私は気持ちの楽になる一週間の考え方というものをしている。

まずは金曜日をもともと休日と考え、週休三日制とする。
三連休の一日目を日曜大工してやるか、という感覚でいると平日の感が消えてくる。
これで平日は四日になる。
そうして月曜日火曜日、水曜日木曜日で分けて考える。
すると月曜日行けば平日の半分が終わる。
火曜日はこれで前半終わり。
水曜日は明日行けば週末になる。
木曜日はこれで明日から三連休。

このような感覚でいると非常に気が楽でいい。
こういう感覚でいるから木曜日の夜に決起会という名の飲み会をしてしまったのでなお気が抜けてしまったのである、もともと金曜日は休みなのだからそもそも遅刻という表現が可笑しいのだが。

ああ、虚しい!なんて下らなく情けないのだろう。

けれど語ることによって虚しさが浮き彫りになるというのは焦燥に駆られた心にとっては癒しなのである。
何事も急いでも仕方ない、遅刻をして私は急ぎながらも急ぐことの無意味さを感じたものだった。
なにをしようと言い訳ができる、虚飾できる。
この地点まで書いて見える虚しさというのは随分と味の薄いものであるがこれはこれで小気味がよい。

2016年12月10日土曜日

部品

昨日は会社の人間と飲んだ。
こういう表現が一体どれだけの人たちの目をひくのか私はわからない。
一人間のありふれた独白というものに関心を持つものなどいないからだ。
独白、ただ私は独白しつづけようと思う。

その独白に意味はない、というとき私はきっと子供らしい過ちをおかしているのだ。
なぜ空は青いの?
そう問われてとっさに説明できはしないけれど光りの性質がそうさせるのだという科学的な説明はいくらでもできるはずだ。
そしてそれを成り立たせる根拠の根拠がまたあってきりがない。
それと同じように答えれば私の独白というのは根本的な寂しさから来るものだといえる。
なぜ寂しいの?
そう問われると、根拠の根拠を探してみたくなる。
ーーーー昨日、会社の人たちと飲んだのだ。
そこでは私は大きい案件を決めたからということもあっていつもより気楽で鷹揚に構えていることができた。
別に話の内容は大したことがない、実は人間嫌いだったり孤独だったり普段話さないようなことを特別に話したということをわかってもらえたらそれでいいのだ。
そこで、私はこういう会社に関係のない話で盛り上がりたのしい思いをした。一方で、会社を離れればいっさいの関わりを持たないであろうし、そういえば学友もまたいっさい連絡をとらないようになってしまって、どこまでも落ち着く場のない人間なのだということにしんみりしてしまったというわけなのである。
思えば、父親も母親もそういう人間なのである。
寄る辺のない、広がりを一切持たない関係のなかを生きているのだ。
そうして、誰に思われることなく彼、彼女は死にゆくのである。

終わってしまえば何もかも今が無駄に思えてしまうような、そういう一日が人にはあるはずだ。
それは私にあるのだから無論、おまえたちにもあるのだろうという乱暴な推論。
ただ、そういう推論によってしか人の気持ちをくみ取れないという気がしている。

私はとにかくどうでもいい一人から抜け出したい。
これは常に特別視されたいという、肥大化してしまった自己の言葉である。
私は誰からも特別されて然り、特別視されていなくともきっと今や遠くない未来、特別視されるであろう期待に生きている。
だから、実際に特別視されてしまった今、ひどくつまらないと思う。
お前は社長賞を狙えるだろう、HやNなどは相手にならないだろう。

ああ、たしかにそうだ。相手にならない、こいつらはどこか私を見くびっていやがるんだ。ただの年上というだけで偉そうにしている。
会社!ひどく馬鹿らしい、こんな話を私にさせないでくれ!
誰もが私を知らない、そんな中でこんな話をするとは、私は部品ですと言っているようなものだ。
ああ、私は部品さ。そしてそのことを徹底的に否定している部品なのである。
だから今に見ておくといい、私はもっとも称えある賞をとって部品として誰よりも全うすることでついに部品という劣等感を克服するであろう。そしてその後にやめるであろう。そして、その上の人間のあっけにとられたような顔を見るのが今から楽しみなのである。
そういう空想を私はした。

2016年12月1日木曜日

稀薄な重さ

頭が重い、ただ重く何事かを考えることがままならない。
今日は曇りであって、気分が優れない。

こんなとき、書いているときであれば特に問題にならなかったが書くことをやめると単なる鬱というか、鬱に悶え苦しまざるを得ないみたいだ。
思えば、ふとすると心が重くなり、ふとすると心が軽くなるという揺り返しがこれまでに延々とあって書きながら今日は重たい日だ、数瞬のものだから何とかなるだろうという気楽さを獲得していた。
ところが書かないとなると、それが永遠という気がしてくる。

私は文章によってその日の気分を記してゆく。
明日の気分予報というのができた試しなんてない。
けれど、書くと文字は書かれる。その積み重ねでノートがたまっていくことが自分の存在を確かめているような気がされて心地がよかった。
「ああ、これは一ヶ月ぶんの重みだ」
そう思うことで存在を確かめられていたような気がする。

しかし、感覚の定量化をやめようとしている。
何かを語ろうと、記そうと努めること。
そして私はこうも思っている、子供のとき語彙が少なかったからこそ美しさを表現することによって損なわなかった、そして私が大人になってしまった以上(悲しいことに誰もが言葉を覚える)言葉で語り尽くそうとすることでその美しさに近づくことはできるのではないだろうか。
なるほど、その心がけは素晴らしい。
けれども努めようとしている時点で、すでに美しさというのは遠く彼方に、色鮮やかなものは褪色していることに、気付かなかったのだろうか。
感じなければならないことを感じようと努める、その馬鹿らしさ!
そういう気苦労を書くことによって助長していたのである。

書こうとするとまだタイピングがまだ上手くなく心と身体がちぐはぐな感じがされて心地よくない。
なので徐々に慣れてゆく。
読まれない文章には価値がない、少なくとも自分にとってはそうだ、そういう考えに半ば強迫観念的に思う節がある。
自分さえ幸せであればそれでいいという考えだったけれども、それではなにか違う感じがしている。

ここでは誰かしらが読んでいる。
読まれていることをほんのり思って、こうして文章を公の場に投げようとしている。
こういう感覚に拒絶があったはずだけれど、それにも慣れていく。
内的に表現する。あくまでも自らにわかる形で表現する。
ああ、それは表現なのだろうか、一体誰に示している?
自負自身なのだろうか。
書き手は自分、読み手も自分。読み手だけが分裂していく、ああ次第に拍手喝采が聞こえてくる、一体どれだけ人が増えたことだろう。ああ罵詈雑言、一体どれだけが…。
存在が稀薄になっていく。

読み手を自分以外の他者に置かせてもらう、そういう不躾さを実践していく。

2016年11月25日金曜日

溺れる

私は落ち葉を眺めている。最近になって冬の匂いも感じられるようになり、年の瀬も近付いて来ていると感じた。

私はサボるということに非常に執着がある。思えば小学校の頃から仮病を使っていたし、中学では友人とサボって電車で遠くに行ったり、高校では一緒に勉強する人がいないからと一人で図書館に行っていた。
そうして大学生の頃はサボることが仕事のようなものだから帰ってサボりがいのなさに怠惰な日々を過ごしていたように感じられる。
皆が一斉に盛んに動き出す頃に私は沈黙し、皆が一斉に眠りだす頃に私は目を覚ます。

実際、サボったからといって何も得るものはないのだけれど、今になって私はどうしてサボっていたのか、サボっているのだろうと思案する。
単に勉強がつまらなかったというのと、義務があることでそこから離れたときの自由というのがたまらなかったのかもしれない。
授業を仮病で休んで一人家に帰る道中の幸せといったら、あの空の大らかさといったら、何事にも変えがたい。

何か義務というのは、教科書の通りに進んでいって先が見え透いている。
けれどもそこから離れたものというのは予想がつかない、その予想のつかなさから何か得られるのではないかという期待があるのかもしれない。
実際、サボっているときに本などを読むとこの上なく充実しているように感じる。
実際には十数ページで飽きてしまうのだが。
そうして、二分切れ負けの将棋をひたすらにしている。

そういう期待に私は生きているのかもしれない。
そうしてその自身に納得しないのだからこの病の根は深い。
あくまでも私は在りたい自分というのに今の自分を投影しているのだから。
そうしてその投影の確固たる理想のためには他者の意見には一切耳をかさない。
それだから何の成長もなくただ幻影だけが肥えてゆく。

もっとも最近では私は自我に執着することをやめて理解ある者と過ごしている。
そういう幻影が不毛であることに気付かせてくれたし、非常に理知的で病理をあぶり出してくれた。
おそらくは私は自身ではもう修復が不可能なほど孤独に親しんでしまった。その幻影というのは紛れもなく自らの作り出したものだが、その幻影に雁字搦めにされていたのだろう。

私はとにかくこれまでの私と離れる。
片足の思想ではなくて、両足を踏み込んでみる。
もう戻れないかもしれない。
けれどもそうでなくてはその物事を十分に楽しめないのだから、私は自分を捨てようと思う。

そうして他に尽くしてみる。
仕事もそう、溺れてみる、読書もそう、溺れてみる、彼女にも溺れてみる。
全てが"溺れる"と形容したいほどに怖いことばかりだが、そうしないと私には何も残らない。

何だかジェットコースターに乗っている最中に慣れたと思う瞬間があるでしょう、その感覚があるので私はここを生きていけると思う。

2016年10月27日木曜日

灰と眠れ

煙草を水曜日の夜に吸った。

お香の灰と煙草の灰が混ぜてみる。
すると白蛇の鱗のような、いつ朽ちるともしれない灰は灰に還る。
もちろん灰なのだから特別に書くようなことはないと思う。
それでも私はあの剥がれかかった壁面の塗装のような灰、灰とのみ記すにはあまりに説明に欠けた灰、つい手を出さざるを得なくなるような浮ついた白い灰が気にくわない。

昔、身体測定の順番待ちをしている最中に壁をぼうっと見つめていると剥がれかかった塗装があった。
壁と塗装の間に爪を入れ込むとぺりぺりと小気味のよい音をたてるのが心地よく、爪に外壁の破片が刺さって血が滲んでも無心になって塗装を剥いで、剥き立ての卵のように生まれ変えては一人悦に浸っていたものだった。
気づくと私の近くに破片が散らばっていて、遠くにいくつかの視線を感じた。
近くの破片の存在がやけに私を孤独にさせた。
(そういえば、あのとき僕は身体測定が終わった後、「壁を剥いで汚したのは誰ですか?」と問われて挙動不審になったのだっけ。そして周囲の目線に耐えかねて、何も言わずに手を挙げたことを覚えている。そして僕は職員室で怒られた。気をつけますと言ったきり済むと思いきや、マイナスをプラスに変えるにはどうしたらいいか、と問われて普段からゴミを拾いますと言ったのだった)

私は一人きり。
煙草を吸い終わると黒と白から成る灰を丹念に混ぜて灰色に返す。
これは夜、私が孤独に悲しまないようにする無意識的な儀式である。

2016年7月19日火曜日

人間社会がなんだ

人間社会がなんだ。

出勤前、人間の社会が何だろう、大したことないんだというひどく抽象的でいて妙に誇らしげな感覚を抱えていた。
会社に着くまでの間、労働が機械に取って代わられるとして・・・ということを考えていた。
そうすることであたかも労働当事者たる俺が俺から離れることができる気がしたからかもしれない。
この営業職が機械に取って代わられたとしたら機械が価値を生むようになるだろう。いいや、そもそも俺はこの職業にあることでなにか価値を生んでいるのだろうか。俺が新規の案件を取ってくれば会社は儲かる。もし俺でなく機械だとしても会社は儲かる。
つまり俺の存在は代替が利くのだ。

こういうことを考えては俺の存在とは一体なんであろうと思い至る。
俺は会社の歯車だ。使用人たる社長は何の歯車だろう。会社、世界、はたまた・・・
偉くなれば偉くなるだけ抽象的になるのだろうか。
それでも会社、社会、世界、どれも人間がいるのだから人間という共通項は同じなんだ。
あと違うとしたら人に与える影響の大きさくらいのものだ。

俺の人間に与える影響なんて何もない。
俺がが機械に取って代わろうが、何の影響もない。
そして使用人たる社長は私腹を肥やす。
だが俺の想像する使用人たる社長は私腹を肥やすことだけを考えているのだろうか。一代で会社を築いた人間だ。俺はビジネスのことについて語ることを嫌うがさして使用人たる社長は嫌いではない。

社長は仕事を生き甲斐にしているのだろうと思っている。俺も多かれ少なかれ、こういう労働という偉大なことに従事していると錯覚させる暇つぶしはある程度、人間には必要なのではないかと思っている。
けれども機械にとって代わられると余暇、文字通り暇があまり、金の価値は希釈されゆく。もちろんこれは労働の対価という観点からのみ金を稼ぐことのできる男にとってだが。

俺にとって労働は義務でしかない。せざるを得ない仕方のないものだ。
楽しいと思ったことはあるが、続けたいと思ったことはついぞない。だから今は自己を犠牲にただ生活を成り立たせているのだ。
その先に何があるのか俺は知らない。
ただ、俺は文章で人を魅せたいという夢はある。

人間の、人間でない部分を働かせているのが労働である。
眩しく目の開けられないような道中を経て、妙に落ち着き払って職場の人間におはようとあいさつをする。
人間の、人間でない部分の歯車と歯車を噛み合わせて俺たちは後光にあやかっている。光りを発する何かを直視できずに。

2016年7月10日日曜日

相貌

今日、免許証を更新した。
そして当然のように写真を撮られた。
撮られる間際にシャツの襟を立てようと思ったものの、何の合図もなく撮られてしまったために自身の姿はみすぼらしいものだろうと考えながら講習を受けていた。

自分の名前が呼ばれてから受け取るまで、私は窓際の列に並んで呼ばれるのを座って待つ人々をなめ回すように眺めていた。髪が青い女性、とんがり靴にパンツにチェーンをぶら下げた禿げたおじさん、何の印象も与えない青年、無関係な人たちと私との間には免許更新に来ているというただそれだけの共通点があるという不思議さに胸をうたれていた。
免許を受け取る間際には座って待機している人も少なく、私は手を伸ばしても届かないであろう距離にいる女性を見ていた。皆が皆、わき見反らさず一直線に免許を更新するという単一の目的の中、遮光シャッターの隙間から光りがこぼれていて、その光りに目を奪われている目的から外れた数瞬の女性は人間だと思った。

果たして小さな枠には世に埋まる顔つきの男がいた。
社会人二年目の生活を経て私は何一つ棘のなさそうな男の顔をそこに見たのだった。
これは一種、何かを成し遂げたいと心の奥底で思う私にとっては衝撃的なことだった。
この何でも言うことの聞きそうな男は人のいいなりに動けているかどうかは別にしても、いいなりであろうとする心の持ちようが相貌に反映されたに違いなかった。
そのときになって、ようやく私はサラリーマンなのだという感を得た。
これまで会社員という表現が私にとっては会社に属する一個人という意味合いであったのに対して、会社に属さなければならない一個人という意味合いのサラリーマンという表現が腑に落ちた瞬間であった。
あれは紛れもなくサラリーマンだった。
単一の目的以外にものを考えられない男の顔がそこにはあった。

2016年7月8日金曜日

誰にも見られない意識を持つこと

誰かに見られることを意識して書くのはさもしい。

私は見られることを意識してしまってこの最果ての場所にいる。
誰も届くことのない隔絶した領域へのはじめの一歩だ。

2015年6月1日月曜日

精神の抜け殻

何かを記すことは形骸化した精神を集めることだ。
そこに精神はなく、精神の足跡だけが、抜け殻だけが、残されている。
そして、私は精神の抜け殻を日記に書くことによって、収集し、その幾つかを此処に放り投げている。
なぜ、私が投げるのか、わからない。
空虚であると同時に愉快だからかもしれない。
もしくはごく少数の読者が、そうさせるのかもしれない。
読み手を意識した文章というのは、ひどく醜く、吐き気を催す。
もちろん、これは他者にも強く感じるが、何よりも自らに感じるのだ。

私は今、日記に書かれた精神の抜け殻をタイピングで打ち込んでいるが、この行動を文章に表すと、滑稽で無様である。

私は生に疲れている。「生に向き合わざるを得ない生」というのは、とても苦しい
私は一体、何度同じことを繰り返し問うただろう。
そして、その後で必ず、「全ては虚しい」と答えたことも。
こんなに若くして、もう先が見えてしまうような私の貧困な言語と創造にうんざりさせられる。

私は絶えず「何が楽しいのだろう」と思う。精神を記述するという行為でさえも。
だけど、結局のところ、そう思いながらも精神の抜け殻を大量に生産しているのであり、此処が虚無の終着点なのだろう。
私は、幼少の頃、外界にしか興味がなく、生きる意味についてだって「生きているのだから、在るだろう」くらいにしか思っていなかった。
そんなことを考える余裕なく、私は素晴らしい友人に囲まれていたし、いつも外で遊んでいた。


しかし、私は今、世界のすべてを見た気になって、疲れ果てたように内面を旅している。
外界にときおり、楽しいことがあっても、ちっぽけな薄氷が辛うじて深海に引きずり込むことを防いでいるだけであって、いつも諦念が同席しているのだ!
内面について、もっとワクワクしていてもおかしくないはずだけど、私は完全に外界に期待していた過去があり、裏切られたために、こうして深海で溺れ、もう底に馴染んでしまった。

私の書くという行為は、虚しさに耐え忍ぶのみ。此処は虚無の最果てである。
しかし、いつも何かを消し去り、壊してきた私は、精神の抜け殻だけは捨て去る気にはなれない、唯一、大切なものだ。
私の精神の置き場所は他人にはなく、単一で此処にしかない。本当に此処だけなのだ。
だから、精神の抜け殻を失くしてしまったら私は悲しむ。

もし腕がなくなって書くことが容易でなかったらどうしよう!?
そんなことを考えるとゾッとする。私に襲いかかる虚無感を、口による記述の速度で逃げ切れる自信がない。
私は足なんて...。歩かないといけない足は行動の象徴だ。私は手が欲しい。
手は精神の象徴だ。
もし私に手がなかったなら、私は動きで「絶望」を表現をするような完全な狂人になっていたことだろう。
今だって、私は文字の中で完全に狂人だ。手がなく記述できなかったら、私は、そこかしこに自らの頭を叩きつけ、何もかも蹴り上げ、最後には、頬で体重を支えるようにして這いつくばることだろう。

私は虚しく、唯一、精神の抜け殻集めが、精神と身体を繋ぎ止めている。