2018年3月29日木曜日

退職届

ついに会社を辞めることになった。今しがた退職届を書き終え、春の日差しを私は灰色のカーテンで遮ってこれを書いている。わずかな光の中、張りのある鳥鳴が部屋を湛えている。
冬を乗り越え、この暖かな時期に転職することができて嬉しく思う。

私は書くことに慣れていないために、少ない語彙でこの退職することから転職に至るまでの心情を表現しようとしている。
ただ、それは叶わない話であり、私はもう普段から誰かに表現することなく会社、他者から与えられた努めを果たすためだけに生きている。

私はもはや自分のものでさえないように感じられる。
私は私の中におらず、もう書くことの意欲は他の欲に取って代わられる。

今日、部長と飲みに行く。
そこでは何かしらの慰留の条件を持ち出してくるだろう。
私はその気持ちをへし折らなければならない。
よくしてくれていた人間だけに、私は申し訳なく思うと同時にすでに決断している事柄に対して相手に配慮しつつ自身の思いを伝えるためには沈痛な面持ちをせねばならない。
その演技がひどく面倒に感じる。
いいや、その面持ちさえも必要ないのかもしれない。

__それにしてもひどい文章を書くようになった。三年ぶりに自転車にのったとしても、もっとまともに走れるであろうに、私はわずかこの一年書かずにいたことで思いと文章が分離しているものを書くようになってしまった。
思いを文章に移すまでの間に大きな溝がある。その溝を乗り越えるための手段がない。

私は本を書くために読んでいるから、書かないと読むことができない。
実際、読んだ本はなんにも生きていないように思う。
大江健三郎の著作を読んだ。
技巧に飛んだ文章であり僕はそれを真似たいが、それに近づくことさえもできない。
アウトプットする時間がないからだろう。

相変わらず景色のない文章。
景色のない、文章。
空は青だ。コンクリートは灰色だ。灰色のカーテンを開くと黒いカラスがいる。
それは鳴き、いずれ飛び去ることだろう。
目の前は一面木が生い茂っている。最近、結婚式会場を作るために伐採されたために、はげを隠すようにして見える地肌のように、桜が薄々とみえる。そしてそれは隠されているがゆえに遮るもののない桜よりも、ありありと桜の存在感を示しているのである。
これがわからないものとはお友達になれそうにない。

私は同業の、より大きな会社に転職する。
そこで僕はより血を見ることになるだろう。
私の迷走神経が不安だ。採血で四回気を失った人間である。
ただ、私は少なくとも人の役に立っていると、そう錯覚させるためには命にかかわるものでなければならないと思う。
働いてしまえば、私は金のために働き金を得ることができるのであれば仕事を厭わないだろう。
ただ、その仕事につくにあたっての原動力、動き出すときに最も力がいる動機が自身を錯覚させるに足る綺麗事でなければならない。
この綺麗事がなければ、私は働くことができなかっただろうと思う。

これからどの地に落とされるのか、果たして三ヶ月の研修に耐えられるのかどうかさえわからない。
ただ、一つ言えるのはこれは心の実験であって、動揺する自身の心を眺めることができれば耐えられるのである。
誰の、何の心にも留まらない文章を書いた。
それをいつだって自覚しているが、それにしても散逸な心のまま私は書いた。